「殉情詩集」について (葉羽)
殉情詩集の意味は、この時期の佐藤春夫の人生を知らなくては理解できないでしょう。佐藤春夫が東京小石川にあった親友の谷崎潤一郎の家を訪ねたのは、大正六年のことでした。谷崎は妻千代との間に一子鮎子を設けていましたが、春夫が訪ねたときの二人は冷め切った夫婦でした。
妻を残し、妻の妹おせいと外出してしまう谷崎をみて、そうした谷崎の身勝手な態度に腹を立てた春夫は、次第に谷崎の妻千代に同情を寄せ、いつしかその想いは愛情へと変化して行きます。春夫の千代への燃える思いは、谷崎の千代へのあからさまな仕打ちによっていっそうかきたてられました。谷崎は、春夫の想いを察し、妻の千代を彼に譲ると言い出したのです。
しかし谷崎は、一度は千代を譲るといいながら、それを打ち消し、二人は交際を絶ちました。春夫は神経症となって、郷里に引き込んでしまいました。でも、結局、千代に対する愛情を無くしていた谷崎は別の愛人に傾注し、再び千代を譲ると言いました。
昭和五年八月十九日の新聞各社は、谷崎潤一郎が佐藤春夫に夫人を譲った事件を一斉に報じました。谷崎と千代、春夫の連名による知友あての挨拶状が紹介され、社会にセンセーションを与えました。
「拝啓 炎暑之候尊堂益々御清栄奉慶賀候 陳者我等三人此度合議を以て千代は潤一郎と離婚致し春夫と結婚致す事と相成潤一郎娘鮎子は母と同居致す可く素より双方交際の儀は従前の通に就き右御諒承の上一層の御厚誼を賜度何れ相当仲人を立て御披露に可及候へ共不取敢以寸楮御通知申上候 敬具
谷崎 潤一郎
千代
佐藤 春夫
なほ小生は当分旅行致す可く不在中留守宅は春夫一家に託し候間この旨申し添え候 谷崎 潤一郎」
ここで採り上げた「殉情詩集」の切ない詩たちは、谷崎の妻であった千代と春夫の心象風景を綴ったものです。そして、その中でも、最後の「秋刀魚の歌」は、春夫の心を描いた絶唱だと思います。なお、「秋刀魚の歌」のみ、「殉情詩集」ではなく「我が1922年」に収録されています。 |