祭事の由来 by 葉羽
喜多方市にある慶徳稲荷神社所蔵の古文書によれば、この田植神事の由来は、明暦二年(1656年)以降中断していた祭事が天保五年(1834年)に再興されたとあります。
200年近くも中断されていたため、神事の道具類についてはこの時に新調されたようで、田植人形の収納箱には天保五年の銘があります。
一方、田植歌については、別の古文書に「御田植歌者古来御社造立之時民之歌謡也」とあることから、かなり前から歌われていたと思われますが、長期の中断のために旋律は既に忘れ去られていました。
そこで、新たな旋律の作曲を行ったのが浦上遜(号:秋琴)という人物で、彼は江戸時代の南画の大家であった浦上玉堂の二男でした。
浦上玉堂は、会津松平家の招きで会津を訪れ、藩士に対する雅楽教授を任されていましたが、その才能を愛した松平公からの長期逗留の依頼を固辞し、代わりに二男を残したのです。
二男秋琴の音楽的才能もまた素晴らしく、彼が作曲した古雅で荘重な慶徳稲荷の田植歌は、田の神への祈りの歌として愛され、現代にまで歌い継がれているのです。
(photo by なっちヤン「慶徳御田植祭」)
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